「元少年A」に感じる違和感本名を出していたらまだ評価できた

神戸で子どもを殺害した酒鬼薔薇こと「元少年A」が「絶歌」という手記を出版したことが話題になっている。
読んでいないし、買いたくもないので今後読むこともないが、気になったのが「元少年A」という名義で出版されていることだ。
書籍の出版にはペンネームを使う習慣があるから、必ずしも本名を晒す必要はないのだが、それにしても「元少年A」はないだろう、と思った。
「少年A」という呼び名は、未成年であればどれほどの凶悪犯罪を犯そうとも実名で報道されることはない、というこの国の法律から来ている名称だ。
しかし事件から十数年が過ぎ、この元少年Aはもはや成人となっており、匿名の中に隠れてよい権利は持っていない。
今回は本の出版であり、犯罪を犯したわけではないからいいではないか、と思う人はいるだろうか。
例えば小説のようにフィクションであればそれでもいいのかもしれないが、本の内容は実際に彼が犯した、日本人なら誰でも知っているような凶悪犯罪に触れるものだ。
にも関わらず、被害者の家族に出版の了承を取っていないそうで、被害者もその家族も、二度にわたって傷つける行動を取ったことになる。
彼がひっそりと日本の片隅で平穏に生きているのであれば、彼が匿名の中に隠れて生活を成り立たせることも許されるのかも知れない。
しかし本の出版という、公に自分の思考や経験を晒す行為を行った以上、もはやその匿名性の中に隠れていることは許されなくなったのではないかと思う。
彼が選んだ「元少年A」というペンネームは、少年法の庇護に甘えて守られている自覚があるから、成人となった今でもそういった名称を用いたのだろう。
彼が本名を晒した上で自身の思いを綴って世に問うのであれば、まだ出版という行為も評価できたが、匿名性の中に隠れて負うべきリスクを回避しようとしている姿勢はとても褒められたものではない。
はっきり言って卑怯である。
匿名性の中に隠れ、未成年であったがゆえに負うべき責任を十分に果たさず、被害者の家族の了解も取らずに再び死者を衆目に晒すような真似をした。
これに対してこのまま看過しない、という人間が出てきたところで私は驚かない。
この元少年Aだが、殺人事件を犯した際にもポエムのようなものを発表して世を騒がせていた。
文章によって世に認められたいといった願望を持っているのかもしれないが、今回の行為は藪蛇となるのではないかと思う。